●月曜日に祖母の葬儀が終わりました。
その、今も気持ちの整理が付いてなくて言葉が上手く出てこないですが・・・。
先週木曜に危篤状態になった時に覚悟は決めていました。
意識も混濁している状態で途中、機械は警告音が鳴り響く状況で、
いつ旅立ってもおかしくない状態だったので・・・。
*会社は早退させてもらって兄弟で病院に向かいました。
でも、自分達が『お婆ちゃん』と声を掛けると必死に目を開けて
何かを必死に訴えようとする姿が最期の姿になってしまいました。
言い方は乱暴かもしれないけど、最期に自分達の顔を見せることが
出来て本当に良かったと思っています、後悔はしていません。
父親、祖父の時は僕が駆け付けた時には亡くなってたので。
特に自分には厳しかったと思います、年少期は手を上げることもありました。
間違ってることがあると堰を切ったように怒り、叩くという繰り返しでした。
*その真っ直ぐなところは祖母の影響が強いのかもしれません。
今となってはわかりませんが、強い男性に育って欲しかったのだと思います。
怒ってばかりでもなかったです、優しい顔を見せることも多かったです。
特に印象に残っているのが、自分が鬱病で前職の仕事を辞めた時ですね・・・。
家族会議があり、『1人で病気と戦う』と僕が宣言し、家族が皆、批判するなか、
祖母は『やれるだけやってみなさい』と優しい顔で背中を押してくれました。
1人で鬱という病気と戦うというのは時間が掛かるのはわかっていたハズで、
実際、5年近く周りに迷惑を掛け、今の会社に入ることが出来ました。
鬱の闘病中、5年の間、月に1度ぐらいですが顔を見せに行ってたんですが、
自分の身体よりも(既に心臓病と認知症が進行してました)、
僕の身体のことばかり気にしてくれていました。
最期に病院で会った先週の木曜の時も必死に生きようともがいていました。
叔母から電話を受けた時は『駄目かもしれない』と言っていたんですが、
自分達が夜に病院に着いた時には1度平常値まで戻っていたので・・・。
自分達が病室に居る時も警告音が鳴り、危ない状態にもなったんですが、
必死に目を開けようと力を振り絞り、声を出そうと努力していました。
*目を開けるのがやっとでしたね、声はもう出ませんでした・・・。
そんな姿を見て、思わず『婆ちゃんは強いな』と呟いてましたね・・・。
本当に最期の最期まで強い女性だったと自分は思います。
最期に声を掛けることが出来たことは後悔はしてないのですが、
叔母の居る家に預けることになった時は就職が決まる寸前でして、
今の会社で3年頑張ってることは遂に報告出来ずに祖父も祖母も、
空へ旅立ってしまいました・・・唯一の後悔はソレですね。
その事もあり、葬儀、出棺、骨壷に入れる時は泣きませんでした。
ただ『ありがとう』という気持ちだけをずっと心で・・・。
泣いたら祖母に怒られると思うので・・・うん・・・。
*でも、アパートに戻って一人になって少し泣きましたが。
まだやるべきことは残っていますが、とりあえずは一段落です。
でも、この半年で家族2人を見送ることになるとは思いませんでしたし、
父親を含め、家族3人が鬼籍に入るとは思ってもみませんでした。
*流石に精神的に弱くなってるので病院に行きますが・・・。
本当に頼りない長男であり、今、家主である僕が何処まで出来るのか
わかりませんが、前だけ向いて1歩ずつ歩こうと思います。
『もう大丈夫』とは言えませんが、やれるだけやってみます。
【追記】 この文章はFacebookのを少し書き直してあります。
Facebookの方が少しだけ細かく書いてますが、
申し訳ないです、あくまでも親しい人のみですので非公開です。